文楽かんげき日誌

鬼はどこにいるのか

鈴木 創士

この『奥州安達原』にも鬼が出てきます。「一つ家の段」です。

寒林に骨を打つ霊鬼、深野に花を供づる天人、風漂茫たる安達が原、隣る家なき一つ家の軒の柱はすね木の松、己が気まゝにまとはるゝ蔦は逆立つ鱗の如く…

奥州の山奥、道もわからぬ安達が原に、ぽつんとあばら屋が一軒建っています。いまで言う福島の二本松のはずれあたりでしょうか。この辺には追剥ぎが出没したらしい。日は暮れかかり、誰の姿か彼の姿かもうわからなくなる黄昏時です。家の前には周囲をぼんやりと照らす高灯籠がひとつ。この陋屋には白髪の老婆が住んでいて、ついさっき道に迷いかけ、追剥ぎを怖がる旅人が一夜の宿を借りようと立ち寄ったところです。
 老婆は旅人を泊めてやろうとやおら畳の上に招き入れます。そしてついに問答の末にまんまと旅人を打ち倒し、喉仏に噛みつき、食いちぎって殺してしまうのです。老婆のくせに馬鹿力、一気に畳を上げると、死骸を下に蹴落とす。死んでも財布を離そうとはしない、哀れな旅人の腕をもぎ取り、血まみれの腕を桶のなかに放り込んで何食わぬ顔です。……
 さらにもっと恐ろしい事が起こります。やっとのことで安達原に辿り着いた生駒之助と恋絹がこれまた一夜の宿を所望すると、道中が大変だったからなのか、臨月だった恋絹が苦しみ始めるのです。陣痛かもしれません。いい薬を買って来てやると言い残し、生駒之助と老婆はあばら屋を出て行きます。夜も更け始め、ここは野の末、一人取り残された恋絹は心細さのあまり、覗いてはならぬと言われていた奥の間の障子をとうとう開けてしまうのです。
 そこで恋絹が見たのは、誰のものとも知れぬシャレコウベや人骨、人の腕でした。驚愕の恋絹。腰を抜かします。そこへ先回りして老婆が帰って来ます。
 逃げまどう恋絹の前に老婆が立ち塞がり、なんと腹の胎児をもらいたいと堂々と言い出す始末です。かわいそうなのはこのお腹の子を宿した母親です。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。何の因果か、そう唱える老婆の口は耳まで裂け、安達が原の黒塚に棲む鬼はここにほんとうの正体を現すのです。鬼となった老婆は命乞いする恋絹に襲いかかり、くんずほぐれつ、とうとう恋絹を惨殺して、胎児を取り出すために十文字に腹を切り裂いてしまいます。
 そこへ老婆の奸計によって山に置き去りにされていた生駒之助が戻って来ます。それでも老婆はあわてて取り出した胎児の血を絞ろうとします。胎児の血は、奥州に新たな政権を打ち建てるために、かつて攫って来た環の宮の病気平癒のためにどうしても必要だったのです。絞った血はなぜかそこにあったシャレコウベに染み込んでゆきます。鬼はちらっとしか怪しむことができません。生駒之助に事の顛末がばれてしまうのは時間の問題です。
 あばら屋に戻った生駒之助は、横たわる恋絹の死骸を見つけてしまいます。そればかりではありません。胎児もまた恋絹の胎からなくなっているのです。生駒之助は老婆に出し抜かれたことに気づいて、奥の部屋の御簾を開けます。ところが、そこに鎮座していたのは、稚宮である環の宮に従うさきほどの老婆、老いの賤の身に引き替えて、厳めしくもきらびやかに十二単に着替えた鬼なのです。まさしくこの場面で、何を隠そう、鬼婆が義家に対して謀反を起こした奥州の豪族、安倍頼時の妻であり、貞任と宗任の母である岩手だったことがわかるのです。
 だがどうして頼時のシャレコウベに血が滲んだのでしょう。老婆岩手は不審に思い、恋絹から奪った守り袋の系図から、自らが胎を切り裂いた恋絹が実は自分とシャレコウベ頼時の娘であり、血を絞った胎児が自分たちの孫だったことを知るのです。なんと娘を殺害したのは母親だったのです。鬼が涙を流してももう手遅れです。
 それでもこの場に及んでもなお、鬼老婆は胎児の血に月の光を当てて妙薬をつくろうとします。ところがこの家の娘となっていた匣の内侍が器を谷底へ落としてしまいます。すると谷底から水が噴き出して来ました。何が起こったのかはしかとはわかりません。なるほど(芝居とはよくできているものだと言えばいいのでしょうか)谷底には聖なる十握の剣が隠されていて、血の汚れを浄めたらしいのです。それを見届けると、今度は、匣の内侍が毛を逆立てて男の姿に変身します。彼こそは頼時の謀反を平定した義家の末弟、新羅三郎義光だったのです。おまけに環の宮も替え玉、義家の子である八若であり、声が出ないという病気も真っ赤な嘘でした。
 かくしてすべては露見し、老婆の策謀はことごとく見破られたことが判明しました。そして自らが手をかけた妊婦である娘と、胎児であった孫の惨い殺害もすべてが無駄であり、徒労に終わったことを悟るのです。老婆岩手、または黒塚の鬼は、こうして谷底に身を投げて自害するのです。

まあ、この有名な場面はこんな具合です。
 スプラッター・ホラーまがいの派手な凄惨さと言えばいいのでしょうか。これはたしかに一大スペクタクルです。さまざまな意味で。この「一つ家」は『安達原』のなかではあまり上演されない段らしいですが、舞台の慌ただしさは文楽や歌舞伎に特徴的なものだと考えて済ましてしまえばいいのでしょうか。実際、この場面で、客席でうつらうつらしていた人たちは目を覚まし、観客席の空気はどこかざわざわとしていました。
 パンフレットに文章を寄せていた演出家の宮城聰さんは、この鬼婆の岩手をギリシア悲劇のエウリピデスの登場人物ヘカベに比肩しうると述べておられましたが、私はむしろこの芝居のそもそもの陰惨さと暴力性の点では、同じギリシア悲劇詩人のアイスキュロスの登場人物たちになぞらえたくなったほどです。この『安達原』自体の全体の話のややこしさは、たしかにギリシア悲劇にも比肩すべきところがあると思います。そうであれば、この「鬼」こそが、突然現れて錯綜した話の糸のもつれを断ち切って、あれよあれよという間に物語を手品のように収束させてしまう「機械仕掛けの神」(デウス・エクス・マキナ)のような地位に昇格したのでしょうか。まさに観客のほうがそれを望んでいたとでもいうように。もしかしたら、この「機械仕掛けの鬼」にはそういう意味もあるのかもしれません。
 ただ同じ伝説が元になっている能の『黒塚』の鬼のように幽玄な「人間的」もしくは「亡霊的」苦悶は、この老婆がいかに恐ろしい形相をしていようとも、ほとんど感ぜられませんし、まったくの別物と言っていいでしょう。少なくとも私にはそう思えました。その意味では文楽でしか出来ないし、無理だろうと思われるこの激しく残忍なめまぐるしいスペクタクル的場面に、それほどの深刻な凄惨さを求めてはならないないようにも見受けられました。残忍さも凄惨さも堕落したり、しなかったりするのでしょうか。文楽のリアリズムは時と場合によってまったく違った相貌をもつことができると言えばいいのでしょうか。
 というのも、話の筋もさることながら、人形こそがやはり何かをその場その場で映し出す鏡だからではないでしょうか。人形にこそそれをやってのけることができる。人形の繊細な動きは舞台のすべてを変えてしまうことができるのでしょう。そして浄瑠璃の大声がここにはあることを忘れてはならないのですが、人形が血を流せば、はたして人も血を流すのでしょうか。それはちょっと別の問題のように思われますが、いかがでしょうか。

いろんな姿を借りることのできる鬼はこの世の安寧を掻き乱す異界の存在である、などと現代の人類学者たちはわざわざ述べていますが、そんなことは子供だって知っていることですし、『今昔物語』や『宇治拾遺物語』などにたくさん登場する日本の鬼や呪い神については、残念ながら、民俗学的な知見をここで披瀝することは私の能力ではとうていできかねることです。それに同じこの「文楽かんげき日誌」のなかにも通りすがりに少しだけ書かせてもらったことがあったので、もう鬼や呪い神についての個人的感想は繰り返しませんが、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上の六道にも入れてもらえない外道である鬼は、いつもどこか悲しげに思えるのは私だけでしょうか。
 あの恐ろしい形相はいつもどこか悲しげで、それに物憂げなのです。だけどこれらの悲しみと憂鬱と諦念はどこから来るのでしょうか。私はそれを知りたいと思っていますが、これはなかなかの難問であるのでしょう。それにこの愚かな鬼はどこか私たちに似てはいないでしょうか。それとも誰もが考えるように、私たちのほうが鬼に似てくるのでしょうか。昨今では、ますます似てきているのでしょうか。あるいは、そういうこと以前に、鬼についてわれわれが抱くことのできる想像力には限界があるのでしょうか。それとも、そんなことはないのでしょうか。

それはそうとして、作家の坂口安吾は、小説「青鬼の褌を洗う女」のなかでこんな風に言っています。別のところに引用したことがあるので、少し気が引けるのですが、私はこのくだりが好きです。あえて最後にここに引用しておきます。
 「私は谷川で青鬼の虎の皮のフンドシを洗っている。私はフンドシを干すのを忘れて、谷川のふちで眠ってしまう。青鬼が私を揺さぶる。私は目をさましてニッコリする。カッコウだのホトトギスだの山鳩がないている。私はそんなものより青鬼の調子外れの胴間声が好きだ。私はニッコリして彼に腕をさしだすだろう。すべてが、なんて退屈だろう。然し、なぜ、こんなに、なつかしいのだろう」。

■鈴木 創士(すずき そうし)
フランス文学者、批評家、作家。音楽ユニットEP-4のメンバーでもある。1954年生まれ。主な著訳書に『アントナン・アルトーの帰還』、『魔法使いの弟子』、『中島らも烈伝』、『ひとりっきりの戦争機械』、『サブ・ローザ』、『ザ・中島らも』、エドモン・ジャベス『問いの書』『ユーケルの書』『書物への回帰』『歓待の書』、フィリップ・ソレルス『女たち』、アントナン・アルトー『アルトー後期集成』(共同監修)、ジャン・ジュネ『花のノートルダム』、アルチュール・ランボー『ランボー全詩集』など。兵庫県在住。

(2014年11月17日 第二部『奥州安達原』観劇)