文楽かんげき日誌

華やかな酷薄 ――阿古屋に思う

谷崎 由依

対象のない恋愛というものについて、時折考える。以前から考えることはあったが、このごろとみに考える。恋愛にはふつう、相手がいる。誰か特定の相手を、触れあいたいと思ったり、そのひとがどうしているか、どんな気持ちでいるだろうかと、気遣ったり、気になったり、目で追いかけていたりする。けれどもその一方で、恋愛的な状態、というのがある。あるような気がしている。

どう言ったらいいのだろう。たとえば『伊勢物語』の、筒井筒の段。幼なじみで長く言い交わしていた男女が結ばれ、夫婦となる。しかし女の親が死に、暮らし向きの悪くなるなかで、男はよそに別の女を作ってしまう。その女の許に出掛けるとき、妻は嫌な顔ひとつせずに送り出すので、これはあやしいと、さてはこいつも浮気をしているのではないかと疑う。そこで男は出掛けるふりをして、留守中の妻の様子を見張る。すると妻は、「いとよう化粧じて」――化粧し身なりをととのえて、戸外を見やり、歌を詠む。夜半にひとり山を越えていく、夫の無事を祈る歌であった。

学校時代、この話を授業で習ったとき、その女の様子が、ひどくうつくしく思えたものだった。うつくしく、かつ充足している。まるく満ち足りている。そう思った。夫が別の女へ通うのを、知っていたのか。まるで気づいていなかったとも思われない。しかしそれでも、しっとりと化粧し――誰が見るわけでもないのに、夜空に恋情をそっと解きはなつ女の姿は、不思議とゆたかで、幸福に、わたしには思われた。夫の浮気相手である”高安の女”より、その意味でよほど勝っている――勝ち負けで言うのもおかしいのだけれど、なんだかそんなふうな気がした。

前置きが長くなったけれど、『壇浦兜軍記』の「阿古屋琴責の段」を見ていて、そのことを思い出したのだった。清水坂の遊女、阿古屋は悪七兵衛景清と恋仲にあったが、平家に仕えた景清は壇ノ浦ののち頼朝を伐とうとしたため、指名手配となっている。居場所を知っていると疑われた阿古屋は、堀川御所へ呼び出され、拷問に掛けられる。

琴、三味線、胡弓。三つの道具を順々に与えられる。阿古屋はそれぞれを奏でながら、景清との思い出を語る。阿古屋のかしらは、傾城。娘とは違う、凜とした、決意のまなざしと成熟した色香。はじめて見たけれども、圧倒された。衣裳にあしらわれた虎がよく似合う、そのたたずまいにも、技量にも。技量はもちろん、人形遣いと大夫、三味線の三業によるものであるが、それがまったく三位一体となって阿古屋というひとつの現象を作り出している。現象、というのがおかしければ、うつしみ、だろうか、なんといったらいいのか、人形遣いの動かす阿古屋の、胡弓の弦を押さえていく指、人形の白くちいさな指のひとつひとつと、上手(かみて)で“実物の”胡弓を押さえる、技芸員の指の動きがまるで揃っているのである。平行に舞台に立ち、演じているのだから、互いは見えない。なんという芸であることか。そこから生まれる音楽の圧倒、このうえもなく華やかで、複雑で、たくさんの模様を施した精緻な音の織物が織りあげられていくさまを見るような心地がした。そうしてわたしは、怖かった。そこにある感情を、なんと名づけるべきなのかわからなかったから。

文楽は鏡のようなものであると、はじめてその舞台を、『曾根崎心中』を見たときに思った。人形という、ほんらいなら魂を持たぬものであるがゆえ、どんな魂の容れものにも、技芸員の技で成ることができる。どのような心の鏡にも、見るもの次第でそれは成る。 富岡多惠子の「触れる袖」という小説を読んだ。死を目前にしたひとが、文楽と歌舞伎の両方で『夏祭浪花鑑』を観て、文楽のほうがよかったと、頻りに手紙に書いてある。その手紙は遺書である。そのひともまた、文楽という鑑/鏡に、何かを映し出されたのではないか。その何かが気に懸かって、その舞台をくりかえし、くりかえし観にいったのではないか。

わたしは阿古屋が怖い。怖いと同時に、魅入られている。文楽の、入り組んだ三味線の音律は、ひとの心のもつれた模様を、もつれのままに描き出す。「影といふも、月の縁。清しといふも、月の縁。かげ清き、名のみにて、映せど、袖に宿らず」と、その歌声にうたわれる景清は、舞台には一度もあらわれない。不在ゆえにその存在を膨らませてゆく、ひとの影。かの女のなかに満ちている。閉じたまなうらに、映っている。それを、朗々と解きはなつ。月のかなたへ届けとばかりに。男に、聞こえるはずはないのに。悲しみの向こうの明るいばかりの潔さ。いまのわたしは、それがなぜだか怖い。音の鏡に映し出されることが怖い。つぶだった音のひとつひとつに揺すぶられることが。残酷、というのとも違う。それは何か、酷薄なこと。

ひとつの季節を外国ですごして、戻ってきて、ふた月ほどして観にいった文楽だった。日本語だ、これが日本語だ、と感じた。つるつると手応えのない日々のなかで、ようやく日本の、よいものに触れた、と。 まだどこか、惑星の反対側に置き去りになっていた。それがようやく帰ってきた。そのように思えた公演だった。

■谷崎 由依(たにざき ゆい)
作家、翻訳家。1978年生まれ。京都大学文学部美学美術史学科卒業。2007年『舞い落ちる村』で第104回文學界新人賞受賞。訳書に、キラン・デサイ『喪失の響き』、インドラ・シンハ『アニマルズ・ピープル』、ジェニファー・イーガン『ならずものがやってくる』(ピュリッツァー賞・全米批評家協会賞受賞作)など。京都府在住。2013年、IWPでアメリカに滞在、京都造形大学HPで「アイオワ日記」公開中。

(2014年1月24日第二部「面売り」「近頃河原の達引」「壇浦兜軍記」観劇)