日本芸術文化振興会トップページ  > 国立文楽劇場  > 素人は入門などしない

国立文楽劇場

素人は入門などしない

鈴木 創士

今回の文楽は『伊賀越道中双六』だったが、劇場に入る前からひとつやってやろうと考えていたことがある。虚心に浄瑠璃を聞こうと思ったのである。 浄瑠璃のことなど何も知らないドシロウトである私は、それでも今回は少し注意してドシロウトなりに浄瑠璃のことを実地で知りたいと思って席に着いた。大夫たちがどんな風に語るのかうなるのかを遅ればせの白昼夢の中で聴いていたい、というか眺めていたいと思った。大変申し訳ないのだが、観客は気楽なものである。 私がまだ意識などというものを持たない赤ん坊に近かった頃、祖父が家で長唄をうなっているのを膝の上に乗っかってよく聞いていたらしい。前回のかんげき日誌でも渡辺綱のことに触れたが、長唄がこの渡辺綱のくだりにさしかかると私はいつも決まって泣き出したようである。祖父がそれを手放しで喜んだことは想像に難くないが、この際、そんなことはどうでもいい。「情」なのか「風」なのか、私にはこの歳になってもいまだによくわからないにしても、赤ん坊や幼児もまたドシロウトであるということが言いたいのである。

いままで文楽を見るときは、舞台の上に出てくる字幕にしょっちゅう目をやってそれを読みながら、急いで視線を舞台に戻しては人形の動きを追っていたが、どうもこのやり方が、誰が考えてもそうだろうが、邪道に思えて仕方がなかった。以前私は外国映画の字幕の仕事をやっていたことがあるが、映画の外国語会話をすらすらと理解できる人は少ないだろうから仕方がないけれど、本来あんなものは無用の長物なのである。 今回、耳だけ大夫の唄というか語りに集中して目は人形の動きを追っていると、面白いことがわかった。話が不思議に読めてくるのである。勿論、物書きの端くれである私といえども、情けないことに、すでに教養のないわれわれには時には難解にも聞こえるだろうこれらの古めかしい語りにじっと耳を傾けていて、すみからすみまで理解できるというわけではない。だが、なぜか自然に話が読めてくるのだ。元々、人形よりも浄瑠璃が先にあったのだから当たり前のことかもしれないが(このことに意味があるのかどうか知らないが、パンフレットの出演者のページにも、人形遣いよりも前に大夫の紹介がしてある)、浄瑠璃というのは、何と言うか、とてもよくできているものなのだな、ということくらいはわかったのである。

これは唄なのか、語りなのか。義太夫は「唄うべからず、語るべし…」と義太夫節の元祖である竹本義太夫はきつく言い聞かせていたようであるから、それは語りなのだろう。今言ったように、なるほど話の筋は駄ジャレや脱線も含めて読めてくる。でもそれなら三味線は伴奏ではないのだろうか。伴奏ではないと言い切るには、あまりに大夫の息と合ってしまう時が多いように思えるのは私の空耳だったのだろうか。 私はいまでも音楽をやっていて、ピアノというかキーボードを演奏したりするのでわかるのだが、ひとつのまとまりである音が何かに伴走していて(他の楽器や歌やその他の音やリズムという意味だが)、逆にそれに合わせないでいるというのもまた至難の技なのである。だが同時に合わせたくなくなるという誘惑もあることを私はよく知っている。簡単に言ってしまえば、壊したくなるのだ。伴走している当の相手を別の機微、別の衝動、別の体系によってこちら側に引きずり込んでしまう一種の「遊びとしての危険」を犯したくなるというのも本当である。つまり下手をすれば相手の世界を侵蝕してしまうから、これは危険な振舞いではある。とはいえ、結果的にそれがたしかに全体的な音として考えれば良かったということもあるのだけれど…。 今回、三味線の音を聞いていて、タイミングや、ある意味で思いがけない、ある意味では情動的にぴったりしたメロディーが大夫の語りを、どう言えばいいのか、下方に引き下げ、「情」の血中濃度を冷水を浴びせかけるように低下させるように思えたとき、じつに面白く、いい効果だと思った。話が壊れないままに、調和が微妙に壊れかけるのだ。文楽にだって「破れ目」はある。勿論、西洋音楽的に言えば、三味線のメロディーが「絶対音」と「微分音」の間を揺れ動いているということだけではない。そんなことは邦楽では自然なことである。そうではなくて、いわば、伴奏としてはリズム的にも旋律的にもタイミングが不意打ちのようにズレるときがあるのだ。これはとても高度に気息的である。この不意打ちは思いがけずじつに幽玄な風情を醸し出すときもあるし、とにかく愉快である。 観客席に、ある大夫を贔屓にしているらしい女性がいて、よほどのファンなのだろう、彼女は頭を振ってはしきりにリズムを取っているのが私の席からも見えていたが、もちろんロックコンサートのようには最後まで三味線や語りのリズムと彼女のリズムが合っているというわけではなかった。この三者三様のズレは見ていてとても楽しいものだった。大夫、三味線、観客という三角形はいびつに歪んだり、凹んだり、飛び出したりしていた。 私もまたこの観客が贔屓にしているらしい大夫が素敵だと思った(間違っていたらごめんなさい)。たしか「岡崎の段」に出演されていた大夫だと思うが、低音の、そう言ってよければ、だみ声の大夫である。声が割れて、そこからユーモアと諦念と悲痛が洩れ出し……。なんともぎりぎりの余裕、やさぐれて、それでいて品のある風情があって、つまりカッコいいのである。

ところで、人形は人間に似てしまうことがあるらしい。このことは文楽の人形遣いたちが、いや、すべての人形遣いたちが人形の動きを人間の自然な動きに似せようとしてきたこととはまた別の事柄であるように思われる。人形自体が人間を真似て、人間に完璧に重なってしまうような瞬間がどこかにあるはずなのである。 この『伊賀越道中双六』にも、自分の子供を殺すという誰にとっても恐らくとても印象的な場面があったが、『伝統演劇の発想』の武智鉄二によると、かつて、『太平記忠臣講釈』で、名人であった人形遣い吉田栄三の人形が足手まといになった子供を殺す場面で、人形の頬に一瞬きらりと涙が光るのが見えたそうである。驚いた武智が楽屋を訪ねると、吉田栄三は「いまは何でも出遣いさせるので、こんな役はほんまに涙を流しながら遣うのやないと遣えません」とごまかすばかりだったが、後で武智の友人が撮った子殺しの場面の写真を見て、武智はあっと声を上げた。人形遣いである栄三の目にもほんとうに涙が光っていたからである。 涙を流していたのは誰なのか。人形なのか、それとも人形遣いの吉田栄三なのか、それとも両方なのかは私にはわからない。涙は一瞬だけ光ってすぐに消えただろう。ほおっておいても、誰もいない部屋の中で、誰も見ていないときに人形が涙を流すことなどそれほど珍しくはないのかもしれないが、それでも舞台の上で、観客が見ている前で、人形遣いの技によってこのようなことが起こるなどということには、暗黒の中で年老いた中性子星が爆発して消えるのを目撃してしまうような恐怖があるのではないか。ほんのかすかに見えた人形の涙は、一瞬、舞台全体を白熱化し、瞬時にして元の暗闇に戻すくらいの力があったはずである。気難しくて激しい、度胸もあった武智鉄二をあっと言わせたくらいなのだから、それは間違いない。だから私もまたこんな人形の涙、こんな恐怖を目の当たりにしてみたいと思うのだ。 芸が恐怖に、われわれ自身がまさに消え入ってしまうような、そもそも観客も何もあったものではないという風な恐怖に遠くからでも裏打ちされていなければ、それは何ほどのものだろうとも思ってしまうからである。われわれ観客自身が、もはやどう考えても、それほどの危機に瀕しているということなのである。それとも、そんなひと事のような、能天気なことを、そんな奇跡のようなことを考えてしまうのは、私の贅沢か思い上がりなのだろうか。だが、伝統芸であろうとなかろうと、民衆芸であろうとなかろうと、それはもはや関係ない。ほんとうの名人の芸には怖い怖いものが秘められていて、名人芸とは真の恐怖であり、恐怖の裏返しではないかと思うからである。

■鈴木 創士(すずき そうし)
フランス文学者、批評家、作家。音楽ユニットEP-4のメンバーでもある。1954年生まれ。主な著訳書に『アントナン・アルトーの帰還』、『魔法使いの弟子』、『中島らも烈伝』、『ひとりっきりの戦争機械』、『サブ・ローザ』、エドモン・ジャベス『問いの書』『ユーケルの書』『書物への回帰』『歓待の書』、フィリップ・ソレルス『女たち』、アントナン・アルトー『アルトー後期集成』(共同監修)、ジャン・ジュネ『花のノートルダム』、アルチュール・ランボー『ランボー全詩集』など。兵庫県在住。

(2013年11月18日『通し狂言 伊賀越道中双六』第2部観劇)