文楽かんげき日誌

敵陣は不思議の国

谷崎 由依

私事から入って恐縮なのだが、現在わたしはアメリカにいる。中西部にあるアイオワ大学の国際創作プログラム(IWP)に招いてもらって、三ヵ月間のアメリカ生活をはじめたところだ。世界各国から30人以上の作家が参加し、それぞれの書き仕事をする傍ら、朗読会やパネル・トークを行うことになっている。 翻訳をしているといっても、わたしの英語力はたいしたことがなく、とくに聞き取りはひどいものなので、こちらへ来て二週間、英語を聞いて英語を話すことに懸命になっているうちに、日本語を若干忘れてしまった。窓の外にはオークの立派な木が陽光を受けて輝いて、芝生をリスがうろついている。そんななかで文楽のことを思い、文楽の原稿を書くというのはとても不思議な感じだ。

こちらへ来て驚かされるのは、みんなとても日本文化に詳しいということだ。バーレーンやクウェートから来た作家は日本のアニメで育ってきたし、ほかにもあれこれ突っ込んだ質問をされて、答えられずに困ることもある。また翻訳のワークショップで会った日本語を勉強している学生は、演劇制作を目指していて文楽も観たことがあり、わたしのこのかんげき日誌を英語に訳してくれることになった。日本を代表して何かをしに来たというわけでもないのだが、それでももっと説明できるように、わたし自身勉強しなければと思う日々である。

前置きが長くなった。 夏休み公演を観たのは七月も末のこと。日本は、大阪は暑い盛りだった。演目は『妹背山婦女庭訓』と『夏祭浪花鑑』の二つ。

大化の改新を題材として作られている。天智天皇が失明した隙をついて、蘇我蝦夷が右大臣・中臣鎌足を失脚させて帝位を奪おうとする。が、蝦夷は途中で切腹、その子入鹿も最後には討たれ、改新が成るというのが全五段の筋立てらしい。 このように書くと壮大なる歴史ロマンという趣きだが、上演された四段目を見る限り、その印象はかなり違う。この段の中心人物は鎌足の息子・藤原淡海である。天智帝を山中に隠した淡海は、自身も求馬と名を偽って三輪山のふもとに暮らし、酒屋の娘・お三輪と恋仲になっている。しかし求馬のもとにはべつに通ってくる女があり、それはじつは入鹿の妹・橘姫であって――と、人物関係を追っていくと大分ややこしいのだが、要はどっちつかずの優男・求馬と、彼を奪いあう女二人の三角関係の話である。

ここで苧環、つまり糸巻きが出てくる。求馬は糸の端を橘姫の着物に結びつけ、お三輪はお三輪で自分の糸を求馬に結びつける。面白いのは三輪山伝説を想起させる名を持つお三輪ではなく、橘姫こそが求馬のもとに夜な夜な通ってくるという点だ。三輪山伝説とは神世のむかし、ある女のもとに毎夜通ってくる男がいたのだが素性が知れず、糸を括りつけてあとを追ったところ、三輪の社の神さまであったという物語である。ここではその構造が、男女も含めて逆転している。そしてさらに物語が進むと、謎の女性だった橘姫こそが人間くさく男を恋慕っていることがわかる。 「主ある人をば大胆な、断りなしに惚れるとは、どんな本にもありやせまい。『女庭訓』、『躾け方』、よう見やしやんせ」求馬をあいだにし、橘姫をつけつけと糾弾するお三輪。しかし非難し非難されつつも、なぜか三人とも歌い踊っている。ミュージカル文楽とでも命名したくなる。背後にはたそがれどきの空が、まさに誰ぞ彼どき(求馬は女の正体を誰何するのだから)らしく、繰り畳ねられる糸のようにどこまでも続いている。

お三輪の側にあったと見えた義は、しかし橘姫を追った求馬を追ってお三輪が入鹿の館に入ったとたん、効力を失ってしまう。求馬はあっさりと彼女を裏切り、橘姫と祝言をあげることにしてしまうのだ。そしていかにもその他大勢といった風情の、赤い袴の官女たち。話しかけてくるお三輪に、「お清殿」ならこっちだ、と官女は答える。それはトイレのことなのだが、お三輪は人名だと思い、お清ではなく求馬を探しているのだと応える。はじめからまったく食い違っている。

この感じ、どこかで知っているなあと思う。なんだろう、と考えていたらルイス・キャロルだった。入れ替わりの諧謔。パロディの心意気。『不思議の国のアリス』にとてもよく似ている。騒々しい不条理だ。館の外では強かったお三輪が、たちまちなぶり者にされる。庭訓を語っているようでいて、その庭訓を骨抜きにする。庭訓なんてないんじゃないかという気持ちにさせられる。 一方の『夏祭浪花鑑』は、幕切れである「長町裏の段」の、執拗なまでの殺しの場面が忘れられない演目だ。舅殺しのなまぐささ、響き続けるだんじりの音。肌脱ぎになり、彫り物をあらわにした瞬間、団七は化生になったかのようだ。 もうひとつの見せ場が、「釣船三婦内の段」である。自分の顔をさっと傷つける、このお辰の仕儀。ここでもやはり優男・磯之丞が、みなの中心にいて助けられている。

突拍子もない連想に聞こえるかもしれないが、こちらアイオワでの共同生活のなかで、お辰を思い出すことがある。困っている人がいるときに、ぱっと行動に移るのは女性であることが多いからだ。今回の日誌はちょっと番外編のようになってしまったけれど、この原稿を書きながら、外国にいることと文楽について思うことは繋がっていると感じた。わたしにとって英語は外国語、古文もある意味では外国語だ。いつも何かがわからない、でもだからこそ面白い。そして言葉の壁を乗り越えてこちらへ迫ってくるものは、どんなときでもかならずある。日々そのことを実感している。

■谷崎 由依(たにざき ゆい)
作家、翻訳家。1978年生まれ。京都大学文学部美学美術史学科卒業。2007年『舞い落ちる村』で第104回文學界新人賞受賞。訳書に、キラン・デサイ『喪失の響き』、インドラ・シンハ『アニマルズ・ピープル』、ジェニファー・イーガン『ならずものがやってくる』(ピュリッツァー賞・全米批評家協会賞受賞作)など。京都府在住。現在IWPでアメリカに滞在、京都造形大学HPで「アイオワ日記」公開中。

(2013年7月26日『夏祭浪花鑑』『妹背山婦女庭訓』観劇)