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国立文楽劇場

足に魅せられて

下平 晃道

足に魅せられて

ベベン!三味線の演奏が始まりました。舞台上手には、五人の三味線奏者と同じ人数の大夫が並び、そのうち、舞台に近い一人だけが、演奏とともに、特徴的な響きを持った声で語りを始めます。節がついているので、これは唄い始めるという言い方の方が正しいのでしょうか。いやいや、正しいとか正しくないとか、この際、どうでもいいか。なにしろ、自分にとって初めての文楽なんだし、難しく考えず素直に観てみよう。 こうして、記念すべき初観劇となったのは「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」という演目で、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を討伐する史実を下敷きにした大作とのこと。今回は、その5段構成の第4段目でした。つまり5つのパートに分けたうちの4つ目の物語なんだと、始まる前にパンフレットを読みながら知る。前の3段の内容知らなくて大丈夫なのかな。

ところで、演目が始まる前に、舞台の上手にそれぞれ五人ずつ陣取っている大夫と三味線奏者の紹介がありました。落語のように「気がつけば枕から自然に噺に入っていた」というようなものと違って、あらかじめ「ここからが架空の話である」という宣言がなされていたことで、僕は何かに立ち向かうような、少し前のめりな姿勢になっていたのかもしれません。

ベベン!さてさて、三味線の演奏と、初めて生でふれることのできた、義太夫節の太く低い声と独特なイントネーションに導かれ、舞台に人形が現れました。今日は感じ取れるままに楽しもうと、もう一度ひっそりと心に誓う。とてもとてもゆっくりと物語が動きだしました。

足に魅せられて

大夫は声のイントネーションを変えて、人物の紹介から台詞まで、すべてを演じていました。初めて観劇する身には、何から何まで新鮮です。

最初に心を動かされたのは、舞台で動く人形ではなく、声の方でした。義太夫節の抑揚のついた声は耳に優しく感じられ、この唄の調子は、物語をすることよりも、この声をうまく響かせることが一番の目的なのではないのかな、などと考えていました。舞台では音もなく動き回る人と人形。単純に人影の多さに驚いていました。

人形の印象はというと「頭が小さくて顔があまりよく見えないな」というようなもので、座った位置が舞台から少し遠かったというのもありますが、木で彫られているという顔の造作の美しさよりも、人形の顔の小ささが印象として飛び込んできた。動く人形を観ると、なんだか膝下が短いような気がするし、本物の人体のバランスからは、ずいぶん離れているように感じました。
ところが、短いような気がした膝下の動きを集中して観ていたからか、すっすと機敏に無駄なく動く人形の足にうっとりし始めました。人形の顔とかならまだしも、足の動きが好きっていう、今まで知らなかった自分に気がついた瞬間でした。

人形を観ていると、話の筋がよくわからなくても、動きからその感情が伝わってくることに気がつきました。きっとよく言われていることだと思いますが、人の気持ちというものは、顔の表情からのみ受け取っているわけではないんですね。人が体の動きの中から汲み取ることができる情報の多さに驚きます。
そして、最初は気になっていた人形遣いの存在が、いつの間にか見えなくなっていて、そのことに気がついた時には少しゾッとしました。

足に魅せられて

最初は気になっていた人形の体のバランス。でもある瞬間からまったく気にならなくなります。「生き生きとしたもの」は動きの中に見えてくるのでしょうか。

でもそれからは、ぐっと物語に入って行きやすくなりました。ラジオの周波数がチャンネルにぴたりとあったような状態とでも言いましょうか、自分なりの楽しみかたがわかってきました。演目の途中に挿まれる休憩ごとに、鑑賞ガイドを読んで大まかなあらすじを確認し、床本を読みながら、台詞の中に出てくるダジャレの数々に意外な敷居の低さを感じ、再び演目が始まると「キン」と透きとおる三味線の響きと、義太夫節の声のトーンが人形の動きと重なり、物語の世界へ容易に入っていくことができたのです。

足に魅せられて

気に入ったのは、恋に破れたお三輪に悪態をつく、意地悪な4人の官女。1体につき3人で動かされている主要人物と違い、彼女たちは1体につき1人で操られていた。登場した瞬間に脇役だとわかる。

足に魅せられて

お三輪や橘姫の着物の色が忘れられず、帰宅してから書きとめた赤と青のバランス。

足に魅せられて

お三輪は求馬の着物に糸を刺し、その糸を手繰ってあとを追う。実際は観客には見えないこの糸は物語の場面を繋いでいく役割も担っている。

物語は、最後に鎌足の家来である鱶七という男が、求馬との恋に破れ、激しい嫉妬に狂ったお三輪を刀で刺し、その生き血を手に入れるという場面で終わる。「蘇我入鹿の霊力を弱めて討取るためには、嫉妬に狂った女性の生き血が必要だった」とこんなふうに、初上演の1771年に紡がれた物語の中には、生き血や苧環の糸のように、伝説やそれにまつわる品々が自然に織り込まれていました。きっと当時は神話のような世界がもっと身近なものだったんじゃないかなぁ。だとしたら、それはどんな感覚だったんだろう。もっと観たらわかるのかもしれない。 気がつけば、最初の不安はどこへやら。すっかり文楽に魅了されてしまいました。夏の夕方のまだ暑い中、きっとまた観にくるぞと誓いつつ、劇場をあとにしたのでありました。

■下平 晃道(しもだいら あきのり)
イラストレーター、美術作家。1973年生まれ。東京造形大学彫刻学科卒業。2002年よりフリーランスのイラストレーター(Murgraph または下平晃道)として活動を始める。以後、広告、雑誌、装画、ウェブサイト、ミュージシャンやファッションブランドとコラボレーションした商品等のイラストレーション、ライブドローイングなどの仕事を手がけている。京都市在住。

(2013年8月4日「金太郎のおおぐも退治」「瓜子姫とあまんじゃく」「妹背山婦女庭訓」観劇)